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仕事と子育て

倒れた父ちゃんのこと

関西に母ちゃんと住む父ちゃんの様子忘備録。 

7月23日(月)

少し倒れたり様子がおかしい。夏バテ?と思いつつ仕事から帰ってきた父ちゃん。夜はおやつのわらび餅を食べるが、全体的に食欲がなく、わらび餅を手づかみで食べていた。

7月24日(火)

朝起きると倒れたりふらつきもせず、普通に会社へ行った。夜帰宅が大変遅く心配するが、銭湯へ寄ってきて帰ってきた。しかし足取りがおぼつかない。

7月25日(水)

父立ち上がることができない。母が近所の内科へ行き、「歩けない人がいるのだが往診に来れないか」と頼みに行くも断られ、「救急車を呼びなさい」と言われ、救急車を呼ぶ。ただちに救急で市民病院へ運ばれるも、市民病院の手に負えなくて、国立の専門病院へ。私に電話が入る。父が倒れたと母が泣いているので、急いで関西へ向かう。夜関西へ着く。病院で母と父を待つ。診断は脳梗塞。しかも進行性脳梗塞。首の内頚動脈が直接のつまり。詰まったはずみで血の塊が脳へ散り、脳も詰まりが生じているのと、内頚動脈が詰まって血流が遮断され、ほかの細い血管で脳に血液を送っているが足りないので脳が死んで行っているとのこと。面会時間も限られているので実家へ帰る。父は意識はある。しどろもどろにしゃべる。血をサラサラにする薬を入れて様子を見る。

7月26日(木)

母の誕生日。病院へ見舞に行くと、左半分麻痺。しかし左足がかろうじて動かせていて「おお!」と喜ぶ私と母。しかし脳梗塞は進んでいる模様。

7月27日(金)

明け方病院から電話。進行スピードが速い、話したいことがある、とのこと。内科的療法はすべてためし、薬も限界まで入れているが進行を止められない。外科的手術を提案したい。しかし、通常急性期に行う手術ではないため、15パーセントは失敗する(死亡する)。血液をサラサラにする薬を入れているので、出血多量等リスクが大変高くなる。内容は、頭の皮膚をはがし、頭がい骨を取り、詰まっている血管を一度切り、また再度ほかのものとつなげる(うろ覚え)。つなげても意識が回復しなかったり、人工的に血管を結びつけるので失敗もある云々。父は足はすでに動かなくなっていた。朝は目も見えていたが、昼には見えなくなるほどの急変ぶりで、大いに悩む。悩んで悩んで悩み、結局手術しないことを決める。

7月28日(土)

少し元気になったような父。昨日より気分がいいとのこと。逆に心配だが、喜んで帰る。水を飲みたがる。

7月29日(日)

東京へ私が帰る日。元気な父。水が飲みたい、ご飯が食べたい(食べられない)、テレビが見たいとのたまい、テレビを見させてもらう。「競馬」というのでチャンネルを言われた通りにすると、競馬を本当にやっていてビックリする。しかし見えないようでボーっと瞬きもせずなんとかしてみようと集中し、私たちの声掛けに応じない。

父に挨拶をして帰る。

7月30日(月)

母に電話で状態を聞くも元気そうなご様子。

7月31日(火)

なんと集中治療病棟から一般病棟へ移ったとのこと。急なことで驚く。明日は転院に向けて説明があるらしい(リハビリ中心の病院へ転院が必要)。

8月1日(水)

東京へ連れて行きたい旨を病院の先生に伝えてもらうと、了解される。いくつか東京の病院を紹介してもらい、ベッドが空いて準備が整ったら転院とのこと。ただし関西から東京まで新幹線は無理なので、ストレッチャーで救急搬送するらしい。莫大な金がかかるようで、金額をきいて驚くも、医療従事者がつくなら妥当と言えば妥当か。

そんなこんなな一週間でした。

 

脳梗塞は怖いです。何より発症段階で放置しすぎた母に呆れてしまった(立てないのに内科で往診を依頼するのにもビックリ)発症後数時間で一度元気になるタイプは今後また再発リスクが高いのも現状らしく、できる限りおかしければすぐ救急の手配をとることが大事です。

夏に多いので、寝る前は水分をとって。うちの父ちゃんみたいに毎日2リットルのビール中毒になってはいけない。